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金崎内科医院

〒362-0812 埼玉県北足立郡伊奈町内宿台3-40

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院内報2024年12月1日号を掲載しました

本当に秋が来ないうちに12月になってしまった感じがします。紅葉していないのにいつの間にか家の周りの落ち葉が増えていたといったような・・・。でも冬支度はするしかありません。今回の冬は普通に寒くなると言われてはいますが本当でしょうか。寒がりなのでできれば寒くなって欲しくないのですがこれはわがままな望みでしょうか。

<かぜ情報>

前月に続き咳が長引くことで受診される人が増えています。やはりマイコプラズマ肺炎を含めた肺炎の方もいらっしゃいますし咳喘息のような方もいらっしゃいます。11月後半から少しずつインフルエンザが増えてきているようです。コロナ陽性となる方は少ないながらもいらっしゃいます。こちらも冬には増えてくることが予想されます。

<年末年始の休診のお知らせ>

12月29日(日)から1月3日(金)まで休診とさせていただきます。

<来年からの診療時間変更の知らせ>(前号と同内容)

来年(令和7年)より月、火、木、金曜日の午後の診療時間は1830までとさせていただきます。ご留意ください。(水、土曜日の午後は休診です)

<院長の書籍出版のおしらせ>(前号と同内容)

9月に糖尿病に関する本を出版いたしました。スティグマ(偏見)やエビデンス(根拠)、糖尿病治療の歴史についても改めて書いてみました。普通の医療・健康本とはやや趣が違うものになりましたし、お薬についての具体的な話のところはちょっと難しいかもしれません。しかし糖尿病をもつ人が読めば明るい気持ちになっていただけるはずです。もしご興味がありましたらご購入をよろしくお願い致します。全国の書店での販売となっていますし、電子書籍化もしています。また、当院受付でも取り扱っております。読まれたならご感想やご意見をいただければ幸いです。

<前院長の逝去について>

ご存知の方も多いと存じますが、今年の218日に当院の前院長であった私の父が亡くなりました。私は文章を書くのが苦手ではない方なのですが、自分の肉親のこととなるとなかなか書けないようで年の終わりの今になってのお知らせとなってしまいました。

父は平成2年に伊奈町で開業しました。当時私は高校3年くらいのときで、それまでは医師になることは全く考えておらず、大学も文系学部を受験しました。志望校に合格できないとわかったところでせっかく継ぐものがあるなら医師になろうかと急に思い立ち、進路を変更し今に至ります。さて、父は医学部卒業後に大学院に進みましたが当時の学園紛争のゴタゴタに巻き込まれて中退し(私も詳細は知りません)、アメリカの病院で研修医(インターン)として修業することを決意し自分で応募して渡米しました。母と2歳の私の3人での渡米でした。3年後に帰国し、川口の工業総合病院に就職しました。そして川口が勤務地となったのをきっかけに浦和に住むことになりました。私が小学校に入学するときでした。アメリカにいるときに弟が生まれたのですが、帰国しすぐに私のとっての2人目の弟が生まれ3兄弟となりました。帰国と新居探しと引っ越し、男児2人かかえての出産がほぼ同時ということで母は大変だったようです。私が地方の大学に入って浦和を離れるまで、父は家族には(少なくとも私には)自分が医師であることをあまり実感させませんでした。私が鈍かったのかもしれませんがそのせいもあって自分の進路に医師となることは全く思い浮かびませんでした。それでも父は家では英語の医学書をよく読んでいましたし、医師の仕事は厳しいけどなってよかったといったようなことをつぶやいたのをきいた気がします。

私が大学院を修了するころに父は食道癌と胃癌にかかり大きな手術を受けました。幸いにして癌は完治となりましたが声帯を失い、機器を使わないと発声できないようになってしまいました。そのため急遽私が伊奈町に来て父を手伝うことになりました。私が32歳のときでした。とは言っても声を失ってしまったので実質私がメインとなり、父に手伝ってもらう形となりました。いきなり若くて頼りなさそうな医者に代わって患者様には大変な不安を与えてしまったかもしれず、力不足でお役に立てないこともあったかと思います。おかげさまで何とか医院は継続し、やがて手狭となったため平成25年に現在の地に移転となり28年には私が正式に院長となりました。父は癌で命を失うことはありませんでしたがハンディのある体でもあり、やはり年齢のわりに体力の衰えは早かったかもしれません。コロナ禍で仕事をしばらく休んでもらった影響もあったでしょうか。昨年初めころから食事が摂れなくなりそれとともに体力もさらに低下していきました。母もなんとか工夫して食べてもらおうと奮闘していましたがなかなか回復はしませんでした。昨年秋と今年の1月に自宅近くの病院に入院もしました。特に新たな病気はみつかりませんでしたが、2回目の入院の時には早く家に帰りたい、もう二度と入院したくないとの意思表示がありました。2回目の退院の約3週後の218日早朝に息苦しいといって急に動けなくなりました。私も駆けつけましたがもはや昏睡状態でその時が来たと母と弟と覚悟を決めたところでその日の夜に息を引き取りました。自宅で実質私が看取ったことになるのですが、それでももっと生きることが出来なかったのかなと今でも思うときはあります。私も仕事として多くの人の病気や最期を見てきたのですが、家族の病気や死を経験したことで初めて感じることがいろいろありました。大きな癌を患ってから約20年を頑張って生きられたのは母や多くの関係者のサポートがあったからで、余生はそれなりに幸せだったかなと勝手ながら思っています。特に診療の仕事でサポートにあたっていただいた当院の職員には息子として心から感謝しています。

父は人づきあいにやや不器用なところがあったようですが家族には優しい人でした。私も父に怒られた記憶はほとんどなく叱られるのはいつも母からでした。仕事を継いでからは同業者としてこころもとなかったり、まだまだ力不足と私のことをみていたのかもしれませんが直接そのように言われたことはありません。それでも父に褒めてもらいたい、あるいは安心させたいとの思いでここまでやってきたような気がします。やはりいくつになっても子供は親から褒めてもらいたいもののようです。私もいつまで続けられかはわかりませんが引き続きあの世から父に見られているとの意識のもとでこの仕事に従事して参る所存です。医師を志したきっかけがよくあるような「人の役に立ちたい」とか「子供の頃に自分や家族が病気をしたので」といったものではなく前述のように親が開業したから、という全く打算的なものなのですが、そのことで今でも後ろめたさや引け目も感じております。今回そのことは正直に書かせていただきましたのでちょっとすっきりしたかもしれません。父も許してくれるでしょうか。

※紙面の都合で「糖尿病コーナー」と「院長の日記」はお休みとさせていただきます。