2023/11/07
ここ1年でも最も過ごしやすい気候が続いています。新型コロナの流行も今は落ち着いてきているので少しはくつろぎたいと思うこの頃ですが、季節外れのインフルエンザの流行が続いたりコロナとインフルエンザワクチンの接種の時期にも重なったりと個人的には忙しい毎日を過ごしております。帰宅して夕食を摂った後は猛烈な睡魔に襲われてそのまま寝てしまう今日この頃で、秋の夜長というわけにはいかないです。
<かぜ情報>
発熱やかぜ症状で受診される方がとても多い状況が続いています。コロナが陽性と判定されるケースは少なくなってきましたが決してゼロではありません。一方でインフルエンザ陽性者の季節外れの流行が続いています。11月の初めの時点でも収束に向かう気配なくあまり経験したことのないような長い流行が続いています。今、流行するのであれば冬に入る頃にはさすがに落ち着いて久しぶりに穏やかな年末を過ごせればなと勝手に期待してしまいます。省みるにここ3年ずっと感染症と格闘してきた気がします。それでも力不足のため地域の期待に応えらえていないというのも正直な実感です。もうとにかく皆様の安らかな日常が続いて欲しいです。
<伊奈町特定検診の開始について>
6月から毎年恒例の伊奈町の特定検診は今月で終了です。初めの時点ではまだ予約枠が空いていますので受診を予定されている方はなるべく早めの予約をおすすめします。
<発熱や風邪症状で受診される際のお願い>
新型コロナウイルス感染は5類扱いとなりましたが、引き続き発熱外来はつづけ、時間と場所を分けて診療を継続しています。発熱や、熱がなくてもノドの痛みが出現したばかりなどの場合は11:30か16:00の発熱外来(プレハブ診療室)で診療いたします。事前の電話による予約をお願いいたします。最近は受診予約の電話で朝の診療開始の時間からしばらくは電話がつながりにくい状況が続いており誠に申し訳ございません。また、発熱外来の枠を超えた人数にもワクチン予約や通常診療予約の患者様にもご迷惑をおかけしながらなんとか対応させていただいておりますがそれでも限界を越えての状況が続いております。ご期待に沿えないケースもでてきており申し訳ございません
<診療時間短縮のお知らせ>
11月28日(月)と29日(火)は院長の所用(講演会演者)のため、受付時間を18:15までとさせていただきます。また11月17日(金)も同様の理由で受付時間を18:45までとさせていただきます。
<糖尿病コーナー>
以前も糖尿病の名称変更のことについて触れました。最近になって日本糖尿病協会(主に患者が加入)と日本糖尿病学会(医師やその他の医療従事者が加入)から共同で新しい名称の提案がありました。報道で知った方もいるのではないでしょうか。その新しい名称候補は「ダイアベティス」です。私自身も予想はしていました。英語で糖尿病を意味する「Diabetes」をそのままカタカナにしただけです。この名前は英語圏ではなく欧米全体でほぼ使われています。糖尿病についてもグローバル化したい、とうい意図が感じられます。そもそも糖尿病の名称変更は糖尿病の負のイメージを変えたい、というところから始まっています。特に「尿」という文字は暗い印象をもち糖尿病にかかっている患者さん自身が後ろめたいような感情をもってしまう現状を変えたいという訳です。社会も本人も糖尿病を負のイメージから解放すれば前向きに取り組めるようになるようになり糖尿病の克服つながるのではと期待されているのです。日本語に英語表記を取り入れることが最近特に増えているのは実感されるとことです。新型コロナの感染拡大が始まった時には東京都の小池知事は外出を控えて、というのを伝えるために「ステイ・ホーム」と言ったのは記憶に新しいと思います。民族固有の言語が若者言葉や俗語、外来語も取り入れながら変わっていくのはもしかしたら自然なことかもしれませんが、外来語をそのまま取り入れずに日本人独特のアレンジや造語で対処してきた文化も大事にしたいとい考える私は保守的なのでしょうか。ちなみにdiabetesはギリシャ語が起源で「dia」は「通る」、「betes」は「行く」といった意味でした。以前にも紹介した糖尿病の急性症状はいくら水分をとっても尿がたくさんでてしまうのですが、この様態を表現しています。もともとdiabetesはサイフォンを意味していたようですが、糖尿病急性症状がサイフォンに似ていると古代ギリシャ人には見えたようです。
<院長の日記>
前号の続きになります。日本は欧米と違って「民主主義」を長い闘争の末に勝ち取ったわけではなく明治期に「輸入」しました。このようにいきなり導入された政治形態はなかなか安定しないようだ、と前号に書きました。日本も独特の苦難のプロセスを経て現在に至っています。他国にも例をみない固有の近代政治の発展を象徴するものとして「枢密院」に個人的には注目しています。ところがこの枢密院に相当する機構は現在では存在しません。日本国憲法になってから消失しました。また、これに相当するものは他国にもありません。枢密院はそもそも明治維新から約20年後に大日本帝国憲法の草案作成の機関として創出されましたが、憲法が作成された後も存続しました。憲法においてその存在が天皇を輔弼する機関として明確に規定されました。「輔弼(ほひつ)」とは難しい言葉ですが要は天皇に助言し補佐をするといった表現になるでしょうか。枢密院を「発明」したのは伊藤博文ですが、設置の本当の意図は天皇に政治的な責任が及ばないようにするためのものといった側面と同時に、明治維新から日本をリードしてきた元勲の力を残したかったという思惑もあったようです。個人的には前者について注目していて、うまく考えられたものだと思っています。議会と行政府(内閣や首相)の意見が対立するケースを伊藤は十分想定していました。実際に今日でもよくみられる事態です。その時に天皇が何らかの裁可を下さなければならないときがあるかもしれませんが枢密院が輔弼をすることで、結果に対しての天皇の責任の回避を図ることができるようにするのです。実際の枢密院の担当する分野は法律をそのよりどころとして外国との条約の批准や行政府の役人の任官の監視などですが(現在の内閣法制局とも一部類似)、内閣や議会は枢密院の裁定を常に意識しなければなりませんでした。枢密院は12人の顧問官(のちに24人に拡大)と議長より構成され、議長の宮中での席次は内閣総理大臣の次で国務大臣や元帥より上でした。メンバー(顧問官)選出の方法は定められておらず、会議は全て非公開でした。枢密院の「密」は秘密の「密」のような印象を与えます。この点を大正デモクラシーとして知られる政党政治の発展期に批判されることが度々でした。果たして実際に議会や行政と意見が衝突してしまうことも起きました。なんとかお互いに妥協しながらうまくやっていましたが、一度だけ枢密院との対立をきっかけに総辞職に追い込まれた内閣がありました。第一次若槻礼次郎内閣です。世界大恐慌の際に台湾銀行救済の立法をめぐって枢密院と折り合うことができなかったことで政権運営の見通しが立たなくなってしまったのです。このときには世論から激しい批判を受け、枢密院も以後は内閣との先鋭な対立を避けることを意識せざるを得なくなりました。これほど力をもった枢密院ですが軍部の独断と戦争への流れを止めることはできませんでした。枢密院の顧問官は法律の専門家や官僚経験者が多く軍人はほとんどいませんでした。明治期には山県有朋や大山巌ら軍人出身者はいましたが、昭和以降は鈴木貫太郎(終戦時の首相)や齋藤実ら海軍出身はいても現役軍人ではありませんでした。そのため議会(大政翼賛会)や内閣(陸海軍大臣現役武官制)と違って最後まで軍部には懐疑的でした。一方、軍部は枢密院に諮ることなく先行して軍事行動を起こし、ここで引き返したら明らかに国益に(短期的ですが)反するという段階で枢密院に「報告」するという手法をとるようになりました。 枢密院は今もって理解しにくい謎の「院」ですが、それは近代日本での天皇の存在意義が明確ではなかったことに起因しているように思われます。当時もたびたび論争となり「天皇機関説」などが出てきたのがその象徴でしょう。より理解を深めたい方には講談社新書「枢密院」がお薦めです。