2022/11/10
ようやく秋です。11月始めの時点ではまだ紅葉もみられず、季節の進みが遅いように感じます。最近は夏が長く、秋になったらあっという間に長い冬に突入してしまうような気がします。穏やかな秋の日がどうか続きますように。
<かぜ情報>
気温の低下とともに風邪症状で受診される方が増えてきています。その中で一定の割合でコロナの陽性者もいらっしゃいます。熱はなくてもかぜ症状、特に発症間もない場合などは引き続き発熱外来での診療とさせていただきますのでご理解、ご協力の程、よろしくお願いいたします。また、かぜ症状での受診予約はネット予約ではなく直接の電話予約をお願いします。ネット予約で来院されても、発熱外来枠が空いていない場合には改めて別の時間枠へのご案内をお願いすることがあります。
<診療時間臨時変更予定について>
11月18日(金)、12月2日(金)の診療時間は18:30までとなります。
<年末年始の休診日について>
12月28日から1月3日まで休診とさせていただきます。お薬の手持ち分をきらさないようにご確認をお願いいたします。
<糖尿病コーナー>
糖尿病は血糖値が上がってしまう病気です。糖尿病の治療とは何をすることでしょうか。そうです。血糖を下げることです。でも果たしてこの答えでいいのでしょうか。それでは質問を変えてみましょう。糖尿病の治療は何のために行うのでしょうか。合併症を起こさせない、あるいは合併症を進行させないためにです。でも、やはりこの答えでいいでしょうか。さらに質問を変えます。糖尿病の治療の「目標」は何でしょうか。それは糖尿病になってもそうでない人と同じ寿命とQOL(生活の質)を目指すことです。血糖値やHbA1cはあくまでもその究極の目標のための治療や診断の目安です。治療達成の成果を評価するときに使う場合には先ほどの究極の目標達成の代理的な指標となります。これをサロゲートマーカーと言います。「血糖が高い→合併症が起こる→寿命やQOLに悪影響」という構図は常に意識していないといけません。しかし、そうだからといって血糖値を下げれば合併症を防げるか、ということはまだ言えません。血糖を下げれば合併症を防げるということは実際に結果をだして証明して初めて言うことが出来るのです。このことを証明したのは約30-40年前のいくつか大規模臨床試験です。血糖が高いと良くないということはもちろんそのずっと前からわかっていたのですが血糖を下げる治療行為(統計学では「介入」という言葉を使います)で本当に合併症を防げるとわかったのは最近のことなのです)。理屈ではそうなりそうでも、あるいは細胞や動物実験で確実と言われていても実際の大規模試験での証明がないと、証拠(エビデンス)にはならないのです。新型コロナの新しい薬がなかなか承認されないのもそのエビデンスがまだないからなのでしょう。「あるもの」(例えば血糖が高い)と「あるもの」(腎不全や失明する網膜の病気になること)との「関連」を述べるにはいくつかの段階があります。ここでは統計学の話になります。例えば自動車の普及とともに糖尿病も増えたのかという場合です。漠然とした実感を実際に確かめてみましょう。まずは、「関係がある可能性が高い」ということは簡単に調べられます(データがあった場合ですが)。これが「相関」です。そして次が「回帰」です。自動車の普及率が変化すると糖尿病の発症率もその分変化するのか、あるいはどのくらい変化するかの影響の大きさを調べます。これと並行して糖尿病のある人とない人で自動車を所有している、あるいは自動車に乗る機会が増えたかなどの点で比較をします(観察研究)。最後が介入です。自動車に乗る人と乗らない人を追跡して糖尿病の発症率に差がないかを評価します。(この場合はお薬などによる治療ではないので「介入」ではなく正確には「暴露」と言います)。この介入(暴露)研究は実際には極めて厳密に行う必要があります。例えば比較する2つの群で暴露要因以外のすべての要素が同じでなければいけません。実際に完全にそろえることはなかなか難しいですが可能なかぎり条件をそろえなければなりません。ここまでで気づいた人もいるかもしれませんが「比較」とともにエビデンスには「時間」的な要素が入ってくるのです。話が難しくなってしまいましたのでこの辺でやめておきます。続きは次回に。
<院長の日記>
今回は夢についてです。将来の目標や希望の方の夢ではなく睡眠中にみる夢についての個人的なカミングアウトです。私の見る夢にはいくつかの「型(パターン)」があります。そのうちの一つの型はこんな感じです。まず、場面は学校です。小学校か中学校か高校です。大学ではありません。それも自分が卒業した後、あるいは進級した後の教室です。時期は3学期が終わった後の春休みか卒業式の終わった後です。あるいは直後ではなくかなりしばらく経ってからの時、つまりとっくに「卒業生」になってからの時もあります。私は誰もいない教室に行きます。もと自分がいた教室ですがもう自分の居場所(席)はありません。なぜそこに行くかというとそこにあるべきものを戻す(返す)か、そこでやり残したことをしにいくためです。やり残したこと自体は大したものではありません。片付けであったり、やり残しのちょっとした作業であったりします。でもとにかく気になって仕方がないようで、ちょっとした使命感をもって教室に戻っています。それほどこっそりではなく、事務室にいって堂々と鍵を借りたりしています。教室には誰もいません。用を済ませて帰るのですが、どうも完全に目的を達していないようで、すっきりしない、あるいは心残りがある状態でやむを得ず帰ります。さらにもう自分の居場所はここにはないんだなという寂しさもあります。そのあたりで目が覚めます。
かつては夢を語らせることで精神疾患の患者の治療に役立てようとした時代がありました。有名なフロイトあたりがその先駆けのようです。結局夢の内容の分析から何かを得るということには至らなかったようです。
それでも私のこのパターンの夢は自分が昔やり残したことへの漠然とした悔悟の念が投影されているように感じてしまいます。若いとき、子供のときのことを後悔の念で振り返ることは誰にでもあることでしょう。そのようなことがないような悔いの全くない人生なんてないと思います。この気持ちをどうにか抑え込んで生きているのではないでしょうか。
それにしても夢は不思議です。他にもいくつか「型」がありますがまたいずれ書かせていただきます。