2021/09/13
オリンピックもあっという間に終わり、暑さもまだ残るもののかすかに秋も気配も感じるようになってきました。
確実に時は過ぎています。いつか必ず下がるはずの数字も下がる気配はあります。これからは一息つけるようになって欲しいと願うこの頃です。完全な安息ではなく一息さえつけられれば何とか次に進めそうな気がします。
<かぜ情報>
7月から8月は体調不良やかぜ症状で受診される方が多かったです。そして小児の受診者も多かったです。新型コロナウイルスのかつてない広がりにあってRSウイルスなど小児特有の感染症の流行も同時にみられたことには驚きました。小児の新型コロナウイルス感染も増えたとの報道がありますが、今まで感染しにくかった小児にも感染しやすいように変異したのかはわかりません。感染者全体の数が増えたこと、高齢者の感染者が減ったことで子供にさらに広がったように感じてしまうということもあるかもしれません。
<伊奈町特定検診の開始のお知らせ>
7月から毎年恒例の伊奈町の特定検診が始まっています。伊奈町在住の国民健康保険証か後期高齢者証をお持ちの方が対象です(オプション検査となっている胸部レントゲンや大腸がん検診:便潜血などは社会保険に加入の方でも受けられます)。今年は11月末までです。昨年ほどではありませんがそれでも以前よりは期間は長めです。待合室の密を避けるために、今年も1日あたりの受診予約枠を少な目とさせていただいております。期間が長めですので余裕をもった計画で予約できるとは思います。それでも秋以降は予約がとりにくくなる可能性もありますので早めの受診をおすすめします。
<糖尿病コーナー>
今や、糖質(炭水化物)制限食は広く知られるようになりました。脂肪、タンパク質など他の栄養素に比べて直ちに食後の血糖の上昇に影響するので、糖質の制限はある程度理にかなっています。実際に糖質制限は血糖の低下に対してすぐに目に見えた効果が出やすいです。では、長期的にはどのような効果があるのか、あるいはその効果が維持するのかについては不明な点も多いです。何より、糖質制限を長く続けるのは精神的にキツくて途中で止めざるを得なくなることが多いと思います。従って長期的な効果は検証しにくいと思います。それでも最近は糖質を抑えた加工食品も数多く発売されるようになりましたし、外食でも糖質制限メニューなどを時々目にします。家族でたまに行くある有名なラーメンチェーンでも糖質制限のラーメンがあるのを先日見つけました。一方で食事について特に何も気にしないでいると糖質の比率が高くなりやすいのも事実です。日本人は特に主食、特にお米を好み、さらにそれに別の糖質を重ねてしまうことが多いです。ご飯大盛り、あるいはご飯とパン、ご飯と麺類などいった食べ方をしている方も多いと思います。そのような場合にバランスのとれた食事をお勧めすると必然的に糖質をより制限する食事になります。これは緩めの糖質制限の指導ともいえます。一方でさらにキツめの糖質制限という方法もあります。これにもさらに極端な糖質制限とややキツめの糖質制限の2つの方法があります。極端な糖質制限を実践する場合には1日あたりの主食はほぼゼロになります。私は個人的にはそこまでお勧めしていません。出来る人は実践していただても結構ですが、まずは「ややキツメ」の方法を試してみることをお勧めすることはあります。この「ややキツメ」の糖質制限の場合、1日の糖質摂取量は150~170g程度となります。この場合、1日3食とすると1回の食事量は約50-60gとなります。すると1食のあたりの主食からの糖質接種量は40-50gとなります。この量は具体的にはご飯では普通茶碗の半分くらい、コンビニのおにぎり1個程度となります。「少ない!」と思うかもしれませんが、これくらいであれば血糖コントロールの改善や体重の低下にある程度の期待ができます。問題は長続きするか、です。私は個人的には一生これを続けると考えない方がむしろいいと思っています。まず、やってみることをお勧めします。あるいは血糖コントロールが悪化したら一時的に使ってみる手段として考えてもいいのではないかとすら思っています。まず実践して血糖を下げてみる。良くなったら少し緩めてみる、そしてまた上がったらまた再開する、といったやり方です。この方法の方が「長続き」すると思います。ただし、糖質制限の実践あるいは再開を先延ばしにして血糖がより上がってしまうと、後になって初めても効果が得にくくなることが考えられます。血糖が高くなればなるほど、自分で血糖を下げにくくなる「糖毒性」の影響が想定されるからです。とりあへず今の血糖を手っ取り早く下げる手段と割り切っていただくと取り組みやすいと思います。「最近血糖が上がってきたな、そろそろまた糖質制限再開しようかな」くらいの感じです。
<院長の日記>
佐竹義宜の続きです。次の天下人は豊臣秀吉で間違いないといち早く見抜き、誰よりも早く小田原に参陣し、秀吉の威光をもって常陸の国で版図を拡大、豊臣六大将と言われる程の大きな勢力となりました。源氏の名門復活です。石田三成や上杉景勝の重臣直江兼続と特に昵懇となり、秀吉の信頼も得るようになります。一方で関東に移封となった徳川家康のまさに背後に位置することになり、家康との関係にも神経を使うことになります。豊臣政権は家康の背後に佐竹、さらにその背後に上杉を置いてけん制する形となりました。家康としてもさすがに背後の佐竹と敵対するのを良しとせず、何かと秋波を送ったとされていますが、義宜も三成の家康に対する警戒と自信の役割を理解しのらりくらりとかわすような態度をとったとされています。この間、自信の一族の宇都宮氏の検地の不正を咎められ取り潰しの可能性すら取沙汰される危機もありましたが、これも三成のとりなしで切り抜けることができました。そして秀吉の死によって事態は流動的となります。三成に恨みをもつ秀吉子飼いの武将たちが三成を襲った話はよく小説に登場しますが、事を最初に察知して三成を救出し宇喜多秀家の屋敷まで護衛したのが義宜とされています(フィクションの可能性もありますが小説としては面白いところです)。そしていよいよ関ヶ原。家康は上杉討伐を宣言し全国の武士に参陣するように求めます。佐竹にもその命令が下るとともに人質の要求、目付の派遣まで通達してきました。このとき義宜は三成、兼続と示し合わせ、家康の会津攻めの際には背後から攻めて上杉と挟みうちにする手筈となっていました。ここで義宜にとって一つの問題が生じました。佐竹の家中が家康と敵対することにまとまることができなかったのです。もともと大大名とは言っても義宜のカリスマで大きくなったというよりは秀吉の威光でなんとか一族をまとめたというのが内実でした。また、猛将で名高い父、義重もまだ健在。義重とその側近たちは戦をよく知っているので家康に対しては勝ち目はないと反対しました。結局、中途半端な動きとなってしまった上に、上杉が背後の伊達と最上にけん制されて予定された動きがとれず、いったん軍勢を率いて城を出た義宜も水戸に引き返しただけでした。その間に関ヶ原で家康が勝利をおさめ、ここで万事休す。家康の呼びかけにはっきりと応えなかったばかりか、一時怪しい動きもみせたので、お家断絶、当主の切腹まで覚悟しましたが、佐竹にはなかなか御触れが出ませんでした。自ら上洛して詫びをいれたところで沙汰が下され、久保田(秋田)への移封となりました。もちろん減封でもありますが、20万石はあったようです。お家断絶は免れ、父子ともども安堵、以後は家中で結束し幕末まで繁栄した久保田藩の礎を築きました。水戸は徳川御三家となったのは誰もが知るところです。家康はもともと名門を尊重する傾向があるようです。関ケ原で態度をはっきりさせなかった武将には容赦なく処罰をしていますが、特に成り上がりの武将には厳しかったようです。また、譜代を江戸近くに、外様を遠方に配置するということをしましたのでもし佐竹が家康側についたとしても、佐竹が江戸の背後にそのまま残るということはなかったと推測されます。家康は、義宜が三成に恩義を感じていてその筋を通そうとしたこともよくわかっていたようで、「この世に佐竹義宜ほどの律義者を見たことがない」と言ったとか。ちなみに大阪の陣では上杉と佐竹は勇猛果敢な働きをみせました。以外と知られていない佐竹義宜、大河ドラマにしてみたら面白いと思うのですが。