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金崎内科医院

〒362-0812 埼玉県北足立郡伊奈町内宿台3-40

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院内報2024年3月1日号を掲載しました

<かぜ情報>

2月上旬はインフルエンザB型と診断されるケースがとても多くなりました。逆にインフルエンザAと診断される人はほとんどみられなくなりました。完全に置き換わりが起きたようです。毎月申し上げている通り、昨年9月頃からインフルエンザの長い流行期間が続いています。コロナ禍になって2,3年インフルエンザの流行がなかった分、今になってまとめて流行してしまっている感じです。もともとインフルエンザの流行は冬の始まりとともにA型から始まり、年が明けて2月から3月にかけてB型が広がるのが典型的なパターンでした。今回もそのパターンになっているようで、とすれば長いインフルエンザの流行もそろそろ終わることを期待したいです。2月後半からはインフルエンザの数もやや減ってきています。
新型コロナウイルスもまだ多い状態が続いています。発表されている統計データでは陽性者数は減ってきているとのことですが、当院では目立って減った感じはなくまだダラダラ続いてしまっています。

<糖尿病コーナー>

今回は「歯」についています。歯のケアはとても大切です。例えば、残っている歯の数が少ないほど程HbA1cが高いという報告もあります。これはあくまでも関連を示唆するデータで、因果関係を証明するものではありませんが、逆にHbA1cが高い程奥歯の保有数が少なくなるというデータもあります。歯は加齢とともに失われやすくはなりますが特に奥歯から失われていきます。歯の本数が少ないと固いものが食べられなくなり、結果として比較的固い食べもの、例えば野菜や肉類が少なくなってしまい、逆にごはんやパンなどの炭水化物の食品やジュース、甘い嗜好品が増えてしまいがちになります。当院に通院されている患者さまでで突然HbA1cが上昇してしまったときにその原因をさぐってみると「実は最近歯の調子が悪くなって・・・」という場合が多いです。血糖への直接的な影響ばかりでありません。野菜は食物繊維やミネラル、ビタミンなどの栄養素が豊富です。また、肉類は筋肉のもととなる蛋白質の貴重な摂取源ですので食べる量が減ってしまうと筋力が低下する「サルコペニア」やそれによる運動機能低下「フレイル」の原因にもなってしまいます。これも血糖が高くなりやすい悪循環を作ってしまいます。歯を失ってしまう原因として多いのが歯周病です。これは歯と歯茎の隙間にできたプラークが細菌感染を起こす歯肉炎とそれがより進行して歯を支える骨が溶けてしまう歯周炎のことを言います。そして血糖が高いことが歯周病を起こしやすい、悪化させやすくなるのです。血糖が高いと免疫機能が落ちてしまい感染症になりやすい、治りにくいということはご存じのことと思います。歯周病の予防にはまず糖分の多い食品の摂取を少なくすることが大切です。また、日頃の歯磨きもとても大切です。歯磨きも時間をかければいいというものではなく、歯と歯の隙間や歯と歯肉の間もきれいにするようにしなければいけません。歯間ブラシやデンタルフロスを使い分けることも大切です。そしてさらに大切なのが定期的に歯科での検診をうけることです。どんなに自分で丁寧に歯みがきをしても自分ではとりきれない歯垢や歯石はあります。これは歯科でクリーニングをしてもらうしかありません。歯科では歯周病のチェックや歯磨きの方法も指導してくれます。私ももともと歯並びが悪く虫歯とそれによる痛みで歯科にお世話になることが多かったのですが、ここ5年くらいは定期的に歯科を受診して上記のことをしてもらっています。また、歯磨きも夜は時間をかけて複数の歯ブラシを使い分けて続けています。今ではそれをしないと落ち着かないくらいの習慣になりました。それでも歯科でクリーニングをしてもらった後はとてもスッキリした気分になります。また日頃の歯磨きを歯科衛生士さんに褒めてもらうのはとてもうれしいです。そもそも褒めてもらいたいために一生懸命歯磨きをしている面もあります。歯や歯肉をきれいにすることで口腔内全体が清潔な状態にしておくとは肺炎の予防にもなります。高齢になると口腔内の常在菌を誤嚥することが気管や肺の感染症を引き起こすことリスクが高くなるからです。当院では糖尿病の初診の患者様にはなるべく眼科を受診していただくことをお勧めしていますが、歯科も是非定期的に受診していただきたいです。

<院長の日記>

ある哲学の本に書かれていました。人は現実に直面するとき、あるいは経験するとき、本当はとても大きな負荷がかかっているというのです。どんな些細なことでもそれを直に受け止めることは心身を著しく擦り減らしかねないのです。もっと正確に言うと私達の住む世界に起きる事象を完全に直接的に受け取ることはほぼ不可能なのです。では私達はそのような世界でどうして生きていけるのか?そのための手段が「意味づけ」です。ある事象を経験したときにそれと全く同じような事象を経験した記憶があれば、つまり全く新しいものではなくどうやらそれは自分に大きな脅威をもたらす可能性が少ないと判断したとき、つまりそのような意味づけ、あるいは分類ができたときにストレスなくやり過ごすことができるのです。世界の現実を直に経験することは、例えば私達の体を直接経験することにも例えることができるかもしれません。私達の体の中は肉眼的には骨や内臓や筋肉、血管、神経などで構成されています。しかし私たちはそれを実際に見るという経験をしないで済んでいます。それは皮膚や毛で覆われているからです。しかし、まれに怪我などで皮膚の下の世界が垣間見えてしまうことがあります。自分が経験すれば実際に「痛い」という感覚を伴いますがそれとは別の不気味さのようなものを感じてしまいます。これは他人のそれを見たときも同様です。世界に対して意味づけをおこなうことは世界をヴェールでつつむようなものです。人体における皮膚のようなものです。ヴェールによって直接触れたり見たりするのを回避できるのです。ある猟奇的な事件が起きてセンセーショナルに報道された後あるいは同時に私達はどのような行動をとるでしょうか?ここでも意味づけが行われようとします。原因はなんだったのか?被害者にも何らかの責任があったのか、あるいはどんな背景があったのか?と。ところが実際には犯人をいくら調べても納得できる理由が見つからず、場合によっては犯人すら自分でもわからずに行為におよんでしまうこともあり得ます。このように意味づけが不可能な場合は実際には多いはずです。それが現実でしょう。私達が最も厚いヴェールをかぶせてなるべく直視しないようにしている最大のものは自分の死かもしれません。私達は自分が本当は有限の存在、つまりいつか必ず死ぬということをわかっています。しかし毎日その現実に向き合い続けることは無意識のうちに避けるようにして生きています。もちろん、状況によっては自分の死と常に向き合っている人もいるでしょう。哲学者ハイデガーは最も本質的な生き方は自分の死に常に向き合っている時のみ達成されており、ほとんどの人はそのような生き方をしていないといっています。これはとても厳しい意見ですが、私は「意味づけ」は生存に必要な防衛反応ではないかと思います。その意味付けは決して真実ではなくてもいいのです。むしろ「物語」であったほうがいいのです。人は悩みを抱えたときにそれを人に話すと気持ちが楽になることがあります。これは自分で処理しきれないものを「物語」にしているのです。物語にすると客観的にとらえることができるようになります。ちなみ哲学では言葉を「他者」として扱います。人は本当に追い詰められたときに自分の人生の意味を問いかけようとします。言葉を変えていうなら自分が存在する意義です。本当にそのようなものがあるかは関係ありません。問いかけという行為が重要なのです。「死」についてさらに考えてみましょう。人は自分の死を経験することができません。経験するのは自分以外の死です。自分の死はつらくない一方で他人の死は経験してしまうので時におおきな痛みを伴います。そのときに意味づけを必死に行おうとします。これは他の経験に対する意味づけとは根本的に違うように思われます。人の死は「喪失」であり、必死にと同時に無自覚的に本能的にいくら徒労になろうとも「埋め合わせ」をしなければならないのです。人と動物の違いの一つがこの辺りにあるかもしれません。人、すなわちホモサピエンスに進化する前の原人のものと思われる墓が発掘されたとき、墓の中から植物の種子の化石も多数見つかったという例があります。すでに原人の段階で遺体を埋葬し花をたむけたということが推測されます。「弔い」です。死は宗教によっても意味づけされますが、そのもっと前からヒトは死を大きな喪失ととらえてなんとか乗り越えようとしていたのかもしれません。